慶雲館の歴史History

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明治天皇へのおもてなし

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「玉座の間」

明治19年(1886年)秋、明治天皇皇后両陛下が翌年京都行幸啓の帰路に大津から船を利用し、長浜に上陸されるとの報が入りました。

 

長浜に上陸をされてから鉄道へ乗り換える時間に滞留するための適当な施設が無かったことから、当時太湖汽船頭取を務めていた長浜の実業家・浅見又蔵氏は早速私財を投じ、天皇陛下の誕生日である11月3日に行在所建設を着工しました。

 

行幸啓は翌年2月21日ですから、3ヶ月余りの突貫工事。

行幸啓当日の朝に完成する慌ただしさだったと伝えられています。天皇皇后両陛下は同日の13時前に長浜に到着され、慶雲館で休憩し13時45分の列車で名古屋へ向かわれました。

美麗壮観

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2階からの眺め
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日本一の盆梅展

慶雲館の敷地は約6千平方メートル。建物は尾張産の総檜造り寄棟造。2階建で約500平方メートル。建設費は当時破格の1万円。

当時の内閣総理大臣伊藤博文が「慶雲館」と命名したと伝わっています。

2階には玉座が設けられ、琵琶湖と伊吹山が一望できるようになっており、当時の新聞はその景色を「美麗壮観同地に冠たるものなり」と記しています。

 

慶雲館は浅見氏の別邸としてだけでなく、その後も長浜の迎賓館として使われていましたが、昭和10年(1935年)の国史跡指定に伴い、翌年長浜市に寄付されました。また、この場所は江戸時代後期の絵図に大通寺(真宗大谷派長浜別院)別殿と記され、住職の別荘であったことが確認されています。

 

その後は市の施設として、盆梅展や会議場所等として使われてきました。近年、庭園等の復元整備が進み、平成18年(2006年)には国の名勝に指定されました。

浅見又蔵と鉄道

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現存する日本最古の鉄道駅舎
(長浜鉄道スクエア・旧長浜駅舎)
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ダイナミックな雄姿の"デゴイチ"
(長浜鉄道スクエア・北陸線電化記念館)

明治時代、政府は海運と陸運を直結し、物資と人を運ぶ為に鉄道を敷設する計画を打ち出しました。その際に神戸‐東京を結ぶ路線、敦賀‐琵琶湖周辺を結ぶ路線の二つを整備すべきと決定します。

 

敦賀と琵琶湖周辺を結ぶ鉄道を建設するため、町民有志が長浜停車場の設置を請願し、用地を提供できる旨を政府に表明します。加えて浅見又蔵氏は長浜‐関ヶ原間に私鉄を敷設するための許可を請願し、同時に長浜港の修築を滋賀県に願い出て、汽船会社の買収を進めました。その結果長浜の活力と経済力が期待され、敦賀‐長浜間の鉄道敷設の計画が決定しました。

 

明治13年(1880年)に鉄道工事が着工し明治15年(1882年)に長浜駅舎は開業します。明治16年(1883年)浅見氏の請願を契機に、長浜‐関ヶ原間も開業。翌年には大垣まで鉄道がのび、加えて長浜港も完成しました。これによって長浜駅は、北の敦賀や東の大垣、南の大津・京都を結ぶ要の駅となりました。

浅見又蔵(1839~1900年)

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長浜近代化の父 浅見又蔵

浅見又蔵氏は長浜市内で薬種商の三男として生まれ、22歳の時に浅見家の養子となりました。浅見家は長浜の地場産業である浜縮緬(はまちりめん)製造業を営んでいましたが、又蔵氏は長浜を代表する豪商に浅見家を育てあげました。

 

滋賀県第一小学校(開知学校)や銀行設立、鉄道敷設など地域の発展に尽くし、長浜近代化の父とも言える偉大な先人です。

慶雲館年表

月日 出来事
明治19年
(1886年)
11月3日 着工
明治20年
(1887年)
2月21日 完工
明治天皇皇后行幸啓
明治45年
(1912年)
  京都の七代目小川治兵衛により、庭園を作庭
昭和10年
(1935年)
  「明治天皇長浜行在所」の名称で国の史跡に指定される。
(昭和23年に指定解除)
昭和11年
(1936年)
  長浜町(現長浜市)に寄贈される
昭和27年
(1952年)
  長浜盆梅展の会場となる。
平成16年
(2004年)
  一般に通年公開される。
平成18年
(2006年)
  庭園が国の名勝に指定される。